第6回 僕たちは東京スカイツリーだ~塔から考える2010年代論

第6回 東京スカイツリーと東京タワー~そのかたちをめぐって

前回は2010年代に現われる「読み替え」の想像力がどのような局面で登場しているのかということを2011年、つまり東日本大震災後に現われた「やさしい幽霊もの」のドラマの系譜から確認してきた。そこでは「死」という人間にとって必ず逃れることの出来ないものさえも「読み替え」られ「死は終わりではない」というメッセージがドラマの中で謳われていた。

 

しかし、である。こうした「時間」を用いた「読み替え」の想像力はいとも簡単に排他的な国家主義に向かってしまうのではないか?つまり「歴史」を重視する態度はそれが民族レヴェルで意識されるとき、「その伝統に立っている私達」を特権化しているかのように感じさせてしまうのである。実際に2010年代の現実の政治状況を振り返ってみるならばそこでは「○○ファースト」といった政治的言説(アメリカファースト、都民ファースト、日本ファースト……)が繰り返し主張されている。読み替える想像力が「時間性」への重視という形で現れたとき、それが逆説的に「大きな物語」失効後の生きる意味を見出しにくい社会において「大きな物語」が復権したかのように見せてしまうこと。それが現在の社会において生じている事態なのでないか。

 

実際にスカイツリーのライトアップの名称である「雅」も「粋」も「幟」も言葉の意味だけで言えば極めて単純な江戸への懐古主義に陥ってしまうのである。つまりこうした態度は、ある既存の大きな物語を「読み替え」た結果として、また別の大きな物語を呼び寄せてしまう。しかしそれは「大きな物語」の幽霊でしかない。実際はそのような思考に関わりなくコンビニや大型スーパーは増え資本を中心としたバトル・ロワイヤルは進んでいるのだ。では、このような「読み替える」想像力と共に増幅される「大きな物語」の幽霊を僕たちは除霊することが出来ないのだろうか。

 

そのためには「読み替え」られた物語を民族や国家のものでなく、個々人に特有のものにすること、これが必要である。

 

そしてこうした個々人に特有の物語を可能にする構造を、僕は東京スカイツリーにこそ見出している。僕がこの連載の第2回で何気なく書いたことを引用してみよう。

 

(東京スカイツリーの)塔のシルエットが微妙に反ったり、むくんだりしているのが分かるだろうか?そう見えたとしても決して目の錯覚ではない。これは「反り」と「むくり」と呼ばれる日本刀の技法が塔の形に用いられていて、その絶妙な反り具合、むくり具合によってスカイツリーは見る方向によって全く異なる形に見えるというマジックな建築物なのである。

 

形を変えるタワー。このかたちのことを僕は「不定性をもつ構造」と名付けよう。これはある一つの見方を決して強要されることのない(=視点の不定性)構造のことを示していて、この「不定性をもつ構造」こそ私は「読み替える」想像力が国家や民族にとってだけの「読み替え」になることを防ぐものだと考えている。つまり視点によってさまざまな様相を露にする構造が個々人にとって多様な記憶=物語を作り得るのではないか。

 

そしてそれを証左するかのように2010年代のランドマークタワーの多くは単純な直方体ではなくどこか風変わりな形をしているものが多いというのは特筆するに値することである。例えばそれは渋谷ヒカリエであり、豊島区役所の新庁舎渋谷ヒカリエである。

 

渋谷ヒカリエ(https://www.re-port.netより)

 

豊島区役所(https://www.jutaku-s.comより)

 

この比較項として僕たちに大きな示唆を与えるのが東京タワーである。東京タワーは美しい四角錐がそのかたちを作っていてどこから見ても同様の形に見えるのである。そしてその特徴は僕たちがまだ取り上げていなかった『Always 三丁目の夕日』という映画をその裏側で強力に支えている。この映画は日本が高度経済成長の真っただ中にあった1960年代が舞台として選ばれておりそこで人々は建設が進んでいく東京タワーを見ながら輝かしい未来の希望へ一様に胸を膨らませているのだ。

 

この映画には「過去を美化しすぎている」などといった批判がしばしばなされているのであってロマン主義的な感性さえをも呼び起こす「昭和ノスタルジーブーム」のメルクマールともなっているがそうした「日本国民にとっての」共通の物語(発展を続ける日本の未来への物語)を演出するには最適の塔だったのである。しかしそれはあくまでも仮構の存在であり見せかけの「物語」に過ぎない。

 

シンメトリーで美しくどこから見ても同じ風景を提供する東京タワーと、アシンメトリーで「反り」と「むくり」を持ち見る人によって多様な視点を提供する東京スカイツリー。それを表象する『Always 三丁目の夕日』と健全な意味での「読み替え」を可能にする東京スカイツリーの設計が同じ年に始まったのは「読み替え」の歴史的帰結の2つの局面を表しているような気がしてならない。

 

2010年代に顕在化してきた「読み替え」の特徴について徐々にその輪郭が明らかになってきたようだ。次回は東京タワーと東京スカイツリーについて建築史的な面からその2つの特徴を追うことにしよう。とういうのも今回のかたちに関する議論は「変な形をした」とか「どこから見ても同じ形の」といったようないささか感覚的な領域で議論を進めてきたのでもう一度それを建築史のコンテクストの中に置きなおしてこの「不定性をもつ構造」に関する議論を詰めていこうと思うのだ。

(続く)

 

前回の連載はこちらから↓↓↓

第5回 僕たちは東京スカイツリーだ~塔から考える2010年代論

 

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