第5回 僕たちは東京スカイツリーだ~塔から考える2010年代論

第5回 宮藤官九郎と「読み替え」の想像力

 

前回の連載において私たちは2010年代の想像力についてそれが「読み替え」る想像力であることを『アースダイバー』や「ブラタモリ」の事例から考えていたのだった。今回はその「読み替え」の想像力を僕たちがもともと語っていた文脈である東京スカイツリーへの橋渡しとするためにそうした「読み替え」の想像力の諸相とその特徴を考えてみたい。

 

前々回の連載時において私は次の4つの事例が2005年に同時に起こっていることを指摘した。改めて確認すると、

 

2005年  『ALLWAYS 三丁目の夕日』公開   

      宮藤官九郎『タイガー&ドラゴン』

      中沢新一『アースダイバー』

      東京スカイツリーの設計プロジェクトが始まる(設計素案の検討など)

 

 

という4つがそれに当たる。このうち『アースダイバー』には触れているのでもう一度宮藤官九郎の話、そして宮藤の想像力と『三丁目の夕日』の想像力の差異を確認しながら「読み替え」の想像力の特徴について考えてみたい。

 

そもそも2005年に宮藤は『タイガー&ドラゴン』において「浅草」という江戸からの(もっと言えば平安時代からの)盛り場を取り上げ歴史という「物語」を使いながらその土地を「読み替え」ていた。ではなぜこのような「歴史ある土地」に宮藤は回帰したのであろうか。2013年に放映され「じぇじぇじぇ」のフレーズが大ヒットしたテレビドラマ『あまちゃん』について宇野はこう語っている。

 

『あまちゃん』とは80年代のアイドル史のデータベースを用いて、日本という「ジモト」を国民全体の「聖地」にするプロジェクトだったのだ。(中略)舞台となった岩手県三陸地方がこうした「聖地」化によって大きくクローズアップされたことは記憶に新しいが、同作以降こうしたコンテンツ依存の「ジモト」愛の喚起、町おこしはむしろ地方自治体の常套手段と言っても過言ではなくなった

宇野常寛「宮藤官九郎と日本の「長すぎた青春期」(『大テレビドラマ博覧会図録』所収、2017年)より

 

『あまちゃん』は東京に住む主人公アキが母親の地元である三陸地方に移り住むことから始まる。物語は彼女が地元住民にとっては何の変哲もない、何もないように感じられる「田舎」の中に新しい姿を発見しそして「聖地」化することに主眼が置かれる。その「聖地」化のシンボルとしてアキがご当地アイドルになることが描かれるのだ。この作品が強く「読み替え」を僕たちに喚起させるのは、2000年代前半において宮藤が必要に描いた(そして宇野が言語化した)「郊外」(=何もない)における共同体の「創造」が、既存の土地を「聖地」化していく「想像」に変化したことの表れである。つまりそこでは、何もない土地から何かを「作っていこう」とする動きではなくて、ただそこにある土地の中に新しい側面を発見していこうというまさに「読み替える」力への変化が起こっている。

 

宮藤のこうした変化がさらに顕著に表れているのが東日本大震災の年、2011年に放映されたドラマ『11人もいる!』である。

 

http://www.tv-asahi.co.jpより

 

このドラマでは母親が無くなってしまった家族のもとに、死んだはずの母親の幽霊が――しかもその幽霊は決して怨念を持っているような怖い幽霊ではなく、やさしい幽霊だ――やってくる。このドラマに限らず2011年、つまり震災以後のテレビドラマではこうした「やさしい幽霊もの」のテレビドラマが増加したのである。この辺りの事情についてテレビドラマ研究者でもある岡室美奈子はこのように書いている。

 

ドラマでは、人は簡単に命を落とし、死は人生の断絶として描かれる。ところが震災後のドラマでは、生と死のとらえ方が大きく変わった。多くの人びとが唐突に亡くなったという事実にどう向き合えばいいのかフィクションを通じて模索され始めたのだ。
(『カーネーション』の)最終回は、「おはようございます。死にました」という糸子のナレーションで始まり、糸子の死から5年後には、糸子を思い出して涙ぐむ娘たちに向かって「うちはおる。あんたらのそば」と糸子が語るのだ。ドラマが企画されたのは震災前だが、全編を通じて「人はみな死ぬ。しかし死は終わりではない」という思想が込められており、震災後の人々の胸を打った。

岡室美奈子「極私的テレビドラマ史」(『大テレビドラマ博覧会図録』所収、2017年)

 

震災以後増加したこのような「優しい幽霊もの」のドラマでは「人はみな死ぬ。しかし死は終わりではない」というメッセージが響き渡るわけだが、これこそ「生死」という人間にとってもっとも歯向かいようのない現実に対する「読み替え」ではないだろうか?
これは例えば2000年代のサヴァイヴァルを旨とするフィクションの認識と大きく異なっていて『デス・ノート』や『バトル・ロワイヤル』では「死=終わり」であったのだしそのような認識に立たなければそもそもストーリーが成り立たない。しかしここではその「死」さえ終わりではないという「読み替え」の想像力が働いているのである。

 

そのような意味において宮藤はやはり2005年以降に「読み替え」の想像力にシフトした人間であって彼は何の変哲もない「ジモト」をアイドルの力で読み替えたり(そこで新しいコミュニティを作っていくのではなくて、その土地の特性を生かして、つまりその土地の特性を発見してご当地アイドルへとフィードバックしているという部分が大事)、人間にとってもっとも本質的な限界と言いうる「死」をも読み替えているのである。

 

やはり2010年代を覆っているのは「読み替え」の想像力なのであろう。

 

とはいえこの「読み替え」の想像力は――ことさらその道具として「歴史」が用いられるときに――少しばかり危うい事態が起こることが考えられないだろうか?つまりそれは単純な懐古主義者へと陥ってしまう可能性、そしてそれはとりもなおさず「日本の伝統をもう一度」とか「あの頃をもう一度」というようなある種の国粋主義的な方向へとシフトしていく可能性である。

 

そろそろリミットが来たようだ。次回はこの国粋主義的、あるいは懐古主義的な想像力と「読み替え」の想像力がいかに異なるかを確認することにしよう。そしてそうした懐古主義的な方向性は2005年に発生したもう一つの出来事、『三丁目の夕日』、そしてそのシンボルともいえる東京タワーに顕著であるというのが僕の考えである。

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