僕たちは東京スカイツリーだ~塔から考える2010年代論~ 第4回

第4回 中沢新一『アースダイバー』と「読み替え」の想像力

前回は以下の4つのキーワードを提示して記事が終わったのだった。もう一度それらを確認すると、

 

2005年     『ALLWAYS 三丁目の夕日』公開   

      宮藤官九郎『タイガー&ドラゴン』……宮藤の「歴史性」回帰?

      中沢新一『アースダイバー』

      東京スカイツリーの設計プロジェクトが始まる(設計素案の検討など)

 

2005年に同時的に発生したこの4つの出来事をつなげることが今回の私たちの目的になる。とはいえただこれらが提示されているだけでは何のことか分からないのだからまずは一つずつそれぞれの単語を追うことにしよう。

 

旧石器時代の地図を片手に東京の街を歩く。それが中沢新一『アースダイバー』のコンセプトだ。

 

『アースダイバー』(amazon.comより)

 

中沢は現在の街の様子と旧石器時代の地図を照らし合わせながら、東京という混沌とした都市の中に旧石器時代から続く消し得ぬ土地の記憶――その多くが「死」や「生」に関する――を発見していく。例えば次に挙げるのは渋谷の花街である円山町、現在の一大ラブホテル街が存在するエリアについて書かれた一説である。円山町の周辺がかつて「生と死」にまつわる古代の聖地だったということから中沢はこう書く。

 

ここにはセックスをひきるけるなにかの力がひそんでいる。おそらくその力は、死の感覚の間近さと関係をもっている。
宵闇せまる円山町をそぞろ歩いていると、ああ、道の両脇に積み重ねられた小部屋の中で、今夜もたくさんの男女が、セックスという「小さな死」にむかって、性愛の儀式をくりひろげているのだなあ、という感慨に打たれる。セックスをして、オルガスムスに達するたびに、男も女も、生きたからだのまま、少しだけ死のリアリティに触れるのである。
そうした「小さな死」が、小部屋のひとつひとつを充たし、むなしく死んで地下を流れる渋谷川に吸い込まれていく運命にある、膨大な数の精子の霊とともに、円山町の上空に昇天していこうとしている。その様子を想像して、ぼくは恍惚となる。

 

とこのように極めて想像力に富んだ文章で東京という都市を読み替える。ここではラブホテルという俗で、一般には景観を損なうものとして社会には歓迎されない建築に対してその想像力が働いている。もちろん中沢は考古学の専門ではない。この本の中に見られるほとんど中沢の想像の産物ではないかと思われるような箇所を含めて考古学の関係者からは多くの批判があったようだ。

 

しかし僕がここで強調しなければいけないのは、そうした「土地の記憶」が本当に存在するのかどうかということではなく、「土地の記憶」を手掛かりに中沢が東京という土地に何を発見したのか、というその想像力の方である。もちろん一種の評論として書かれた本書は旧石器時代の地図を参照しながら、評論のフォーマットで書かれているから完全なフィクションではない。それでもなお光るのは中沢の想像力である。

 

これは所与として与えられた東京という土地を「土地の歴史」に注目しながら、どう読み替えていくのか、ということに他ならない。

 

三浦展が「ファスト風土化」と揶揄して批判した都市。それは風景が――マクドナルドのハンバーガーのように――均一化され、特徴ある風景がその中に見出せないような都市だ。   具体的にそれは、コンビニや大型スーパーの増加といった現象に現れる。郊外のロードサイドを見てみればよい。そこにはヤマダ電機、ファミリーマート、セブンイレブン、ファッションセンターしまむら、ドン.キホーテが立ち並ぶ。多くの論者がそのような風景を批判する。

 

ロードサイドの風景(伊津呂の気ままな写真日記より)

 

しかしその批判に何の意味があるのだろうか?批判したところで、そうしたコンビニや大型スーパーに頼る生活を抜け出すことが出来るわけではない。むしろ僕たち住人が便利で暮らしやすい生活を望んだ結果として、効率化を極めたそうした店舗による都市の「均一化」は進んでいるのだ。

 

つまり何と言おうと僕たちは生まれた瞬間から、逃れることの出来ない「均一化された都市」に生きざるを得ないのである。

 

このサイトでも書評がアップされている『ゼロ年代の想像力』はこれとほぼ同様の議論を社会システムの観点から論じている。曰く、ゼロ年代とは、生きる意味を保証してくれる宗教や国家というシステムが機能しなくなった社会であり(「大きな物語」の崩壊)、人はその中であえて決断主義的に何か1つの価値観を選ばざるを得ない。その価値観の最たる例が「資本主義」であり、そこで人間は、資本をめぐった逃れることの出来ないゲーム(=バトル・ロワイヤル)に強制的に参加させられる。都市風景の問題で言えば、その資本ゲームの勝者たるコンビニ、大型スーパーが立ち並ぶのである。
いわば、生まれた時からコンビニが立ち並び、休日は大型スーパーで過ごすという全国どこでも見られるようになった環境というのは、資本のゲームに強制的に参加させられていることと等しい。いくらそのことを批判しようとも、すでにそうしたゲームに参加せざるを得ない。

 

中沢新一はそのゲームの中で何を行ったのか。もちろん彼が注目したのはコンビニや大型スーパーではない。しかしその本質は都市の姿をその「土地の歴史」に基づいた想像力によって読み替えることであった。そして僕はこの「読み替える」想像力こそ2010年代に特有の、そして東京スカイツリーを読み解く時にも必要とされる想像力なのではないかと思うのだ。

 

宇野常寛が2000年代の特徴として語ったそのゲームへの参加の様態とは、『バトル・ロワイヤル』や『デス・ノート』に顕著なようにそうしたゲームの中で「生き残ること」。つまりゲームに勝つことによって生存するしかないということであった。その分かりやすい勝者の象徴としてホリエモンに代表される六本木ヒルズの「ヒルズ族」が存在していたのではないだろうか。しかし中沢はそのようなサバイバルに参加するわけではない。むしろそこから逃れるように所与のものとしてある土地を「読み替える」。

 

「アースダイバー」に影響を受けたテレビ番組『ブラタモリ』もまた2010年代的な想像力を働かせる番組である。この番組は2008年にパイロット版が放映され、2009年から正式なシリーズが始まる。現在もシリーズを重ねながら断続的に続いている。この番組もまたタモリが古地図や地形図を手に、全国各地の都市における過去の姿を現在の痕跡から見つけようとする番組である。

 

スカイツリーがしきりに過去を参照し、その塔に「物語」性を付与しようとしたのと同じ方法で現在の土地の痕跡からその場所に眠る「物語」を引き出すこと。「再物語化」という契機はどうやらこうした書物やテレビ番組にまで広がっているようなのである。

 

「読み替える」想像力というのが2010年代の想像力を形成するのかもしれない。

 

ではクドカンの「転向」、つまり2005年に彼が郊外的な土地を捨て(=木更津、池袋)、伝統的な土地(=浅草)へとその舞台を変えたということは彼のキャリアにおいてどのような意味を持っていたのだろうか?次回は2010年代にまで至る彼の足跡をたどって2010年代に広がる「読み替える想像力」の諸相を見つめることにしよう。そうしてみて初めて僕たちは東京スカイツリーに回帰することが出来るのである。

(続く)

 

『ゼロ年代の想像力』の書評はこちらから↓↓↓

宇野常寛『ゼロ年代の想像力』

 

前回の連載はこちらから↓↓↓

僕たちは東京スカイツリーだ~塔から考える2010年代論~ 第3回

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