『精選古典B 漢文編』

 

そのレストランがいいかどうか見極める方法は簡単だ。一番値段が安いソフトドリンクを頼んでみればよい。いつの時代も最良のものは些末な細部にまで手が行き届いている。粗雑に注がれただけのようなソフトドリンクが出てきたならばすぐさまそのレストランを出るべきだ。

 

そんなことを考えながら僕はこの『精選古典B 漢文編』(2014年、東京書籍)を眺めていた。たまたま本棚にあったからだ。この本の細部は全くひどい。4ページ目に「精選古典B」と本のタイトルが書かれているのだが、そこまでは中国の地図や唐宋八大家の肖像などがカラーで掲載されている。本の最後にもひっそりとこうした情報が掲載されている。

こうした情報は恐らく学習指導要領の要請によるもので、「図表などの視覚的イメージを取り入れ、古典への想像力を豊かにする」とかなんとかいう名目があって掲載されているのだろう。それはもちろん良いことだし、必要なことだと思う。文字だけでは眠くなってしまうし。

 

 

とはいえ、だ。ここで問題なのはそうした視覚的イメージたちという教科書にしてみれば些末な、しかし重要な細部が完全に教科書本文と分離されてまとまってしまっていることだ。本文の中に註がついていて、こうした図表へと読者の視線を誘導する機能があるところもいくつかは散見されるものの、このような分離は学習指導要領の要請を果たしているとは言えないだろう。

まさに、ソフトドリンクに気が向かないレストランのように、こうした教科書は(僕の記憶では)ほとんどそのような作りになっている。つまり無駄なものであるかのように図表や雑学コーナーが巻頭や巻末にまとめられている。

 

そういえば僕はこのようなことを思い出す。授業を真面目に聞かないで、巻頭や巻末のこうした図表ばかりを見ている人間が少なからずいることを。

そしていつも見ているからそうした情報ばかりを覚えてしまって、あたかも雑学博士のようになることを。でも僕の眼から見ればそうした人たちのほうが、生真面目に本文の古典を学習している人間よりもより楽しそうに知識を吸収しているように見えていた。僕の友人には、そのように一般の眼からみれば怠け者であるのに、それで文系学問に興味を持って現在は大学の文学部で歴史を学んでいる人間もいる。

 

本当に意味での文学というのはそうした些細な部分から始まるものなのかもしれない。教科書も見方によっていろいろな使い方があるようだ。

しかし本文のみを学習する生真面目な人間と、授業を聞かず巻頭や巻末ばかりを見る人間の間には大きな隔たりがあるのではないか。

文学部廃止論など叫ばれて久しい。むろん僕には文学がいかなるものであるかを語る資格などまだない。しかし感覚的に教科書の関東や巻末を見るような、寄り道の行為であるという一面を持つことは何となくだが理解できる。もしかすると文学部的なるものが世間から分離していくという現象は、既にこうした教科書の構造にその萌芽を見ることが出来るのではないだろうか。

 

そんなことを考えながら教科書をぱらぱらとめくっていた。

 

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