酒ほど忌まわしいものはない

酒ほど忌まわしいものはない_そう考えたことのある人間は少なくあるまい。

ある時は二日酔いにうなされ、ある時は見知らぬ場所で目を覚まし、またある時は財布を無くして右往左往し、そしてまたある時は飲みの席で醜態でもさらしたのだろうか(得てして当人にその記憶はないのだが)後日憎からず思っていた女の子に距離をおかれていることに気付いて意気消沈してみたりするのだ。

酒が生み出す悲劇はあまりにしばしば我々の日常にその顔を覗かせる。しかもタチの悪いことに、これらの悲劇には足音がなく、その登場を我々に予感させない。気が付いたら前述のような状況に陥れられている。「やぁ、来ちゃった」とでも言わんばかりではないか。お呼びではないのである。

 

しかし、だからといって、てめえとの付き合いも今日限りだい、と酒と縁を切れるかというと、事はそう容易ではない。まずこの酒というやつは神出鬼没である。おおよその飯屋には常駐しているし、コンビニエンスストアの拡大に乗じてなおその勢力を増している。挙句には、今年こそは勤勉実直な人間になるのだ、と厳粛な気持ちで訪れた初詣にも潜んでいる始末である。酒の魔の手から逃れるのは不可能に近い。

そして何より問題なのは、酒と縁を切る英断を下せるほど我々の意志は堅固ではないことである。この酒の誘惑は抗いがたく、畢竟我々はズブズブと付き合いを続けてしまうのである。「分かっちゃいるけどやめられない」からこの酒というやつは忌まわしいのである。

 

 

そもそも、人類はこの「忌まわしき悪友」といつ出会ったのであろうか。調べてみると、酒の起源は非常に古く、有史以前から造られていたと考えられているらしい。哀れ初心な人類は、ゆりかごを出てすぐに酒にたぶらかされて悪い遊びを覚えたらしい。こうなっては酒と縁を切るなど到底無謀な試みに思える。それでも、何度か人類は別離を図ったようだ。代表的なのは、1920年代から30年代にかけてのアメリカ合衆国における禁酒法である。

プロテスタンティズム精神にあふれ、理性的で高邁な理想を持った新大陸の住人達は、酒は人間を狂気に陥れる悪魔であるとして、その撲滅を目指すという高貴なる実験を開始したのである。しかしてその結果や如何_実態は悲惨であった。闇酒を売りさばく店が雨後の筍のごとくあらわれるわ、密造ビジネスがマフィアの資金源になるわで散々であったらしい。

悲しきかな、多くの人間はそこまでご立派ではなかったようである。勿論高い志を持った人間も少なからずおり、特筆すべきなのは、少し時代が古くなるが、カンザス州の活動家キャリー・ネイションの逸話である。敬虔なクリスチャンであり180cm80kgという慎ましい体つきの彼女は、左手に聖書、右手にまさかりを持って、讃美歌を口ずさみながら酒場に乗り込んでは、酒樽や酒瓶を破壊してまわるという活動をカンザス中で行っていたらしい。彼女のような、高貴な魂をもつ者たちの必死の活動をもってしても、酒の暗躍は止められないのである。

 

こうなってしまっては、酒と袂を分かつなどという甘い期待は捨てて、酒との懸命な付き合い方を模索すべきであろう。そもそも、人間はなぜ酒を飲むのか。どうして好き好んで狂気に陥ろうとするのか。考えられるとすれば、まさにその狂気に陥ることができるという点である。

人間は理性のタガをゆるめ、狂気に陥ることを欲しているのである。そんな馬鹿な話があろうか、と思われるかもしれない。確かに、人類は理性を以てしてこの不条理なる世界に相対し文明を築いてきた。人間をいやしくも万物の霊長の地位に押し上げたのは紛れもなくこの理性である。

 

しかし、狂気とて効用はあるのである。古くはプラトンが『パイドロス』で論じており、「真の創造とはマニアー(狂気)を通じて出てくるものである」というのだ。ホラーティウスも「思慮にわずかの狂気を混ぜよ、理性を失うのも時には好ましい」と残している。なるほど、西洋古典の先達たち(おそらく彼らも酒との付き合いには苦心したであろう)の言葉をみると、狂気にしか生み出せないものもあるようだ。

普段は理性が支配しているのを、創造のために、狂気を得ることが必要になることもあり、その手段の一つが酒であるということか。とすれば、大人が酒を飲み、子供は酒を飲まないというのは実は逆ではないかと思わされる。つまり、酒を飲まずにすむのが子供であり、酒を飲まずにはおれないのが大人である、と。

子供とは理性の発達が不十分であるがゆえに酒の力を借りずとも狂気による創造ができるのである。

「十で神童十五で才子、二十過ぎればただの人」というが、なるほど、酒の力なくしてはかつての神童も形無しとなっても致し方あるまい。余談ではあるが、近年、世間は未成年飲酒の取り締まりにご執心であるが、このことを考えれば誠にナンセンスな話である。そもそも大人とて酒を飲まねば外せないほどの理性のタガを締めている者がどれほどいようか。かの劉備玄徳とて酒中別人との慰めを受けたのだということを、ドウトクイシキの高い方々は自らの胸に手を当てて考えてもらいたい。

 

 

先述の酒との別離を試みた一例にイスラームがあるが、11~12世紀のペルシアの詩人であるオマル・ハイヤームは『ルバイヤート』の中でこう編んでいる。

  今宵またあの酒壺を取り出して、

そこばくの酒に心を富ましめよう。

信仰や理知の束縛を解き放って、

葡萄樹の娘を一夜の妻としよう。

 

我が国日本でも酒の猛威から逃れようとした者たちがいただろうが、「酒なくて何の己が桜かな」「酒も煙草も女もやらず百まで生きた馬鹿がいる」という言葉が残っているのを見ると、その試みは失敗したばかりか、彼らは開き直りすらしたようだ。

 

このように、酒のもたらす狂気はかくも東西古今の人々を引き付けてきたようである。無理もない、狂気とは、それこそ酒中別人という言葉が示すように、別人になるということなのだから。今の自分から別の何かへと変わりたいということが、人間を突き動かす衝動である。セルバンテスの『ドン・キホーテ』のミュージカル版である『ラ・マンチャの男』にはこのことを明示する台詞がある。

人生じたいがきちがいじみているとしたら、本当の狂気とは何か。夢におぼれて現実を見ないのも狂気かもしれぬ。現実のみを追って夢を持たないのもまた狂気だ。だが、一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に折り合いをつけて、あるべき姿のために戦わないことだ。

 

風車に挑んだ愚かな、しかし理想に燃えた騎士が、狂気を無理やり治療されて正気に戻されるとほどなくして死んでしまったというのは、人間は夢という狂気を持たなければ生きてはいけない生き物なのだということを示しているように思われる。そもそも、何が正気で何が狂気であるのかを判別する術があるのだろうか。ニーチェが「真実などない、あるのは解釈のみだ」と言ったように、ある者には風車に見え、またある者には巨人に見えるというのは何ら矛盾しないのではないか。これを巨人に見えるのはおかしいとするのは理性の偏重である。

そこにはセオリーでないものへの不寛容がある。セオリーが通用する間はそれでもいいかもしれぬ。しかし、この世は何が起こるかわからない。「想定外だ」なぞと言ってすますわけにはいかないこともある。自然にセオリーが通用しない、カオスな領域があるのだとしたら、我々がなすべきは多様性を涵養し自らもカオスを保有してそれに対抗することだ。

そもそも、人間の理性にしたって、他の動物のように爪や牙や翼ではなく、大脳というマイナーな器官を発達させるという博打を打った産物なのだ。

 

 

理性が作り上げてきたものが文明なのだとしたら、狂気が生み出したものが文化である。文明なき文化は絵に描いた餅なのかもしれないが、文化なき文明も決して長命ではなかろう。長命といえば、「酒は百薬の長」という言葉があるのを思い出した。

長生きするために、酒を飲もう。

 

今宵もまた悪友がやってくる。

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司法☆ 浪人

司法☆ 浪人

早稲田大学法学部に在籍...するも社会科学と人文科学の間で迷子になっている。実存主義を拗らせており自己紹介が苦手。血迷って司法試験を受け続けているが例年玉砕に終わっている。口癖は「これが浪人か、ならばもう一度」。血の気が多く、コンテクストを無視してあらゆることをロマン主義的に解釈する悪癖がある。好きな思想家はセネカ、シュティルナー、ニーチェ。
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早稲田大学法学部に在籍...するも社会科学と人文科学の間で迷子になっている。実存主義を拗らせており自己紹介が苦手。血迷って司法試験を受け続けているが例年玉砕に終わっている。口癖は「これが浪人か、ならばもう一度」。血の気が多く、コンテクストを無視してあらゆることをロマン主義的に解釈する悪癖がある。好きな思想家はセネカ、シュティルナー、ニーチェ。

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