地域猫活動は「ねこぢる」を弔うことが出来るか~90年代鬼畜系カルチャーと地域猫活動を巡る一断章

1998年5月10日に一人の漫画家が自らの手でその命を絶つ。

 

ねこぢるである[1]

 

「ヘタウマ」ともいえるどこか愛らしさを覚える猫の作画と過激なストーリーで知られたこの漫画家は90年代前半にアンダーグラウンドでひそやかに隆盛していた鬼畜系カルチャーのムーブメントと近しい関係の中で「ねこぢるうどん」を始めとする多くの作品を夫である山野一との共同制作の中で作り出していた。

ねこぢるの描く猫、にゃーことにゃった。(http://buzz-netnews.com/nekojiru_fishより)

 

鬼畜系カルチャーとは90年代のサブカルチャーの一ジャンルであり、フリークス(畸形)、死体写真、ドラッグ、人肉食、性風俗など一般の人々が眼を背けたくなるような事柄を積極的に扱い、「妄想にタブーなし」(鬼畜系カルチャーの代表的雑誌『危ない1号』のスローガン)を体現するような、いわば人間の「闇」の部分を引き受けるようなカルチャーであった。そしてねこぢるもまたそうした人々の近くで、虫を容赦なく殺し、豚を嫌い、公然とユダヤ人差別を口にするそのような猫を漫画の中で描き続けていた。

 

過激な猫を描き続けた彼女がこの世から消えてしまったのとほぼ同時期にしかしまた異なる猫が日本に現れる。

 

地域猫だ。

 

1997年に環境庁の提案によって日本でその産声を上げた地域猫活動とは「動物愛護とも動物殺処分とも異なる第3の道を目指そうとする」新しい動物の扱い方であって、現在野良猫として路上で生活している猫に適切に去勢手術を施し団体で餌やりや体調管理を行いながら野良猫を減らしていくという活動である。野良猫と地域猫はそのような点で明確に区別されねばならないのであるが地域猫とねこぢるの猫もまた異なるのである。

 

早稲田大学周辺に生息する地域猫の「茶々」

 

 

ねこぢるについて『危ない一号』の副編集長だった吉永嘉明は「嫌いなものは嫌い、とはっきりしていた」と自著である『自殺されちゃった僕』に書いていて彼女の極端な好悪判断について述べている。例えば彼女はテクノミュージシャンであるAphex Twinのことを溺愛していて結局彼とは棺桶の中まで一緒であったのに対して、とある担当編集者は「デブだから」という理由だけで変えさせるように頼んでいたというし食事にもほとんど興味を示していなかった[2]。それは人に対しても物事に対しても同様でとにかく極端な人だったのである。

 

一方で地域猫について僕たちのサイトが取材をした中で「早稲田大学地域猫の会」の方々はこのように述べている(全文はこちらから)。

 

うちは基本的に偏ってはいけないサークルなんですよね。動物愛護の立場に依ってもいけないし、路上の猫を廃絶するだのなんだのという立場になってもいけない。その折衷案、第3の道として野良猫の「自然減」を目指す地域猫活動を行っています。最終的には猫を避妊去勢して増やさないようにするというある意味での条件付きで、猫が嫌いな人や保健所の人からも情けをもらいつつ、現在この地域で生きている猫たちを生かしながら「自然減」させようという活動なんですよね。だから動物愛護でもなければ、殺処分するというわけでもない。人によって主義・主張は様々あるでしょうし、地域ごとの文脈ももちろん考慮しなければならないのですが、「愛護」や「殺処分」という二項対立には与しない概念があるのだということを様々な人に知って欲しいです。

 

動物愛護でもなければ、殺処分でもない。その部分にこそ地域猫活動の本懐があるのだ[3]、というこの指摘を私は大変興味深く感じるとともに、やはり同時に思い浮かんだのはねこぢるその人のことであった。ねこぢるはこれとは正反対に「偏っている」人であったことは確認したばかりである。

 

極度の偏りから偏りを超えた現実路線へ。ねこぢるから地域猫活動をつなげるとすればそのような道筋を描くことが出来るだろう。しかし果たしてそれだけでねこぢるを健全に弔うことは出来るのだろうか。そんな折にちょうどネット上でねこぢると近い位置にあった鬼畜系カルチャーに関する話題が蒸し返されていることを知る。

 

ことの発端は作家で活動家の雨宮処凛がネット上で公開した「90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝。」というタイトルの文章である。全文はここから読むことが出来るがさしあたって簡単にまとめるならば雨宮自身が鬼畜系カルチャーを偏愛していた経歴を振り返りながら90年代の鬼畜系カルチャーの風潮と現在のポリティカル・コレクトネスが厳しくなっていくことから生じるすれ違いについて女性問題を起点にして考える論考であり、最終的に彼女は「自分自身の中にある、「悪趣味」を楽しむような文化が好きだった部分と、今、「#MeToo」などについて書いている自分との断絶。でも、誰の中にもそれはきっとあるはずだ」[4]と締めくくり、人間の中にある悪趣味的な部分とそれを糾弾しようとする2つの層(東浩紀だったらそれを「二層構造」と呼ぶだろう)の存在を認めつつ時代に合わせてそのバランスを考えなければならないのではないかと問題提起を行っている。

 

この論考についてネット上では様々な議論が飛び交い(個人的にはなぜそこまで、と思うのだが)、雨宮は90年代鬼畜系カルチャーを断罪してそれを葬り去ろうとしている、とか90年代サブカルの一局面しか切り取れていない、というような批判が飛び交っていた。私自身はこの論考に関して比較的バランスが取れているのではないだろうかと読んだわけだが確かに一方でねこぢるなどを含む鬼畜系カルチャー自体を全否定してしまい兼ねない危険な側面がこの論考にあることも認めなければならないだろう。

90年代鬼畜系カルチャーとその系譜学について大変に充実した記事を書いている虫塚虫蔵がこの論争を受けて「当時の鬼畜・悪趣味を20年越しに蒸し返して、倫理的にどうこうと問うのは最早ナンセンスでしょう。非生産的なマウント合戦も展開するだけ無意味です」[5]と述べるがごとくもはや価値判断云々ではなく、ただ鬼畜系カルチャーというムーブメントを「かつてあった」ものとして分析していくことのみが重要なことなのである。

 

そのような視点で考えたときに私はねこぢるがその最初の作品で驚くべきことに「去勢に失敗した猫」を描いているという単純な事実に驚きを隠すことが出来ない。

 

『ねこぢるうどん』に収められた「ねこぢるうどん」という彼女のデビュー作は母猫が子猫をうどん屋に連れていきそこの店主に「にゃーにゃーうるさくて全然眠れないんです。今すぐ去勢してください」と頼み続けうどん屋の主人が仕方なくその子猫を持っていた料理用の包丁で去勢したところ子猫が死んでしまうというそれだけの話である。彼女が描くストーリーに何らかの意味を見出すこと自体がナンセンスなことであると一部の人たちからは苦情が来そうなものであるがしかしここに地域猫という私たちがまた異なる猫として考えていた猫を持ち込むことでねこぢるについてまた異なる角度から眺めることが出来るのではないかと僕は思うのだ。

 

「ねこぢるうどん」の一コマ。去勢に失敗する子猫。(https://books.bunshun.jp/list/browsing?num=9784163706801より)

 

つまりここには去勢に失敗し凶暴な猫にならざるを得なかったねこぢるという人間の大きな傷跡があるのではないか。ねこぢるの漫画は確かに人種差別的で人権軽視の面が絶対にある。それは認めざるを得ない事実である。しかし一方で彼女の漫画が真に批評に耐えうるとするならばその「非―去勢状態」から「去勢状態」という2項のうちで揺れ動き続けるその不安定さや複雑さにこそその汲みつくすことの出来ない魅力があるのではないか。雨宮の言葉で言うならば「悪趣味」を好むような精神と「#Me too」運動を標榜するような精神との間での絶え混ざる闘争こそが彼女の人生を支えてきたものであって、その揺れ動きを揺れ動きとして認めることこそが真にねこぢるを弔うことにつながるのではないか。事実ねこぢるは当初こそ極めてアヴァンギャルドともいえる作風で登場したがその人気が上がるにつれて徐々に「大衆」を意識せねばならなくなる途上で自殺に追い込まれていったのである。彼女は本質的に去勢に失敗していたにも拘らずしかし去勢状態を脱しようとしていたのではないか。

 

そこにこそ地域猫活動という二項のどちらともに与するわけではない新しい猫の在り方が登場する。「愛護でもなく、殺処分でもない」という言葉を思い出そう。「愛護」と「殺処分」という対立は取りも直さず今まで見てきたような二項対立に属している。むろんインタビューの中でもあるように地域猫活動は未だにその活動についての確たる規定を持っているわけではないし、そのスタンスにもそれぞれの団体によってバラつきがある。しかし少しずつその活動を整えながらその極めて難しい位置を受け入れようとしている。その活動がある程度陽の目を浴び、そして成功(この言葉が正しいかどうかわからないが)したときにこそ、真の意味でねこぢるを弔うことが可能になると思うのである。そしてねこぢるを弔うということは同時に恐らく今後よりいっそう苦境に立たされるであろう鬼畜系カルチャーのようなものをもまた健全な形で弔うことになる。

 

もう一度言おう。

 

地域猫活動こそが、ねこぢるを弔うことが出来るのだ、と。

 

「早稲田大学地域猫の会」のインタビュー全文は以下のリンクをクリック↓↓↓

「愛護」と「殺処分」のはざまで~早稲田大学地域猫の会 ロングインタビュー

 

脚注

[1] ねこぢる、という作家名は吉本嘉明が指摘するように橋口千代美と山野一の共同制作のペンネームであるが、一般的には橋口のことをのみ「ねこぢる」と示すので本稿ではそれに従ってねこぢるを橋口とイコールにしている。

[2] 吉永嘉明『自殺されちゃった僕』、飛鳥新社、2004年、pp. 63-65を参照。

[3] あくまでも早稲田大学地域猫の会としての「地域猫」に対するスタンスであり、地域猫に関する定義は各所でまちまちである。インタビュー中にも言及されている通り現在はそのばらばらの定義をどのようにすり合わせるのかが問題になっておりそのための協議会が5年前から開催されている。またそうした活動についての意見のすり合わせだけではなく、大学同士での意見交換や協働活動もこのシンポジウム主導で行っている。

[4] 雨宮処凛「90年代サブカルと「#Me Too」の間の深い溝」、最終閲覧日:2018年9月4日、http://maga9.jp/180530/

[5] 虫塚虫蔵「鬼畜系サブカルチャーの終焉/正しい悪趣味の衰退」(『雑誌周辺文化研究互助』)、最終閲覧日:2018年9月4日、http://kougasetumei.hatenablog.com/entry/2017/06/04/232259

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