『ディズニーランドという聖地』から遠く離れて ~今、ディズニーランドを批評することについて

秋ごろ創刊号が発刊される批評誌「Locust」に「東京ディズニーリゾート論」を寄稿することになりこの7・8月は東西を問わず、ずっとディズニーランドに関する本を読み漁っていた。それで少し思うことがありそれを論考の本文の中に組み込むことも出来ないし、かといってこのまま何にも書かずにしておくのももったいない気がしたのでこうして改めて筆を執り直しながら「ディズニーランドを批評すること」について書いてみようと思った。
僕自身は「批評すること」は「何も関係なかった二者を論理やレトリックによってつなぐもの」だと思っているので(僕自身は、という留保付きなのでここに文句をつけても無意味であるということを最初に述べておく)「ディズニーランドを批評すること」はイコール「ディズニーランドを全くそれに関係しなかったものと関連付けて語ること」になると感じている。

 

 

そこでそれらのいくつかを紹介しながらそれらを僕なりの視点でマッピングしてみようと思う。そうすることによって現在のディズニーランドを巡る論壇のある側面、そしてそこから浮かび上がる問題が見えると思うし、僕がそうした本を読みながら考えていたことはその問題点の部分に集約される。それは後に明らかになるだろう。いずれにせよこれからディズニーランドについて考えたい、あるいはディズニーランドについて何かしら書きたいと思う人の役に少しでも立てれば幸いである。またディズニーランド本についてはそのほとんどがいわゆるビジネス書であるがそうしたものは今回私自身が考える「批評」としては扱えないのでリストアップしていない。

 

 

今回文章を書いていて思ったのはディズニーランド批評における「まだ能登路雅子を引用せざる得ない問題」である。能登路雅子は初期の東京ディズニーランドの運営に関わっていた人物で名著『ディズニーランドという聖地』(1990)を書き、それは現在もなお国語の教科書などに掲載されているからご存知の方も多いだろう(ちなみに国語の教科書に掲載されている評論・批評はもはや賞味期限切れ、のように語る人がいるらしいが僕は全くそう思っていないので悪しからず)。ここではディズニーランド成立に至るまでの歴史がそれを作り上げたウォルト・ディズニーの個人史と重ね合わせられながらアメリカ独特の風土の下でそれが形作られてきたことが語られる。「ディズニーランド」という一種神話化したなにものかを歴史的に遡行しながらその神話を解体している、とでも表現するとこの本の立ち位置が分かりやすいかもしれない。つまりこの本はどちらかと言えば「ディズニーランドと過去を結び付けるタイプ」の文章である。それでさっきも言った「まだ能登路雅子を引用せざるを得ない問題」なのだがこの本があまりにもまとまっていてかなり説得力がある上に面白いので未だにこの本はディズニーランドを語るときの古典として用いられる。

 

一方で読む方としてはそれでいいのだろうが書く方としてはわりかしこれは困った問題で能登路雅子が「ディズニーランドと過去を結び付けるタイプ」の金字塔を打ち立ててしまったがためにその後にそういうタイプの批評が出てこなくなってしまったのである。というかなかなか書けないのである。それを証明するかのようにその後のディズニーランド批評本系は「現代社会がディズニーランド化しているよねタイプ」になっている。ざっと挙げてみると(本当に極私的で雑なマッピングであってそれぞれの本にまた異なる魅力があるのは確かなのでぜひ読んでみてほしい)、

 

アラン・ブライマン『ディズニー化する社会』(2004)

速水健朗『都市と消費とディズニーの夢 ショッピングモーライゼーションの時代』(2012)

円堂都司昭『ディズニーの隣の風景』(2013)

 

などだろうか。これらはそれぞれの視座は違えど1955年、あるいは日本では1983年にディズニーランドが登場したのちの世界においてディズニーランドが排除しようとした日常生活がいかに「ディズニーランド化」しているのかを書いた本だといえよう。

 

これとは異なる系統の本として、

 

粟田房穂・高成田亨『ディズニーランドの経済学』(1984→2012)

桂英史『東京ディズニーランドの神話学』(1999)

新井克弥『ディズニーランドの社会学』(2016)

 

が挙げられる。これらは上記3冊と同じようにディズニーランドと現代社会の関係性とその変容について書いている。『ディズニーランドの経済学』に関しては開園当時の東京ディズニーランドの様子を踏まえながらかなり多角的にディズニーランドを分析してる一方で、それが日本人にいかに受け入れられたのかという「日本人とディズニーランド」ということにも関心が向いており、「祭り」とディズニーランドとの関連性など今呼んでも新しい視点を喚起する。桂の本はディズニーランドを富士山信仰などの日本の土着的信仰形態と結び付けて捉え、新井は「アメリカ産」のディズニーランドがある特殊な日本のファンコミュニティー(オタクコミュニティー)によって「日本化」してるのでは?ということを書いた現代日本社会論としても読めるものであり「アメリカ産」のディズニーランドが徐々に変容して日本化しているということに視点が置かれている。

 

前者3冊と今列挙した3冊についてはディズニーランドをグローバリズムの象徴とみなし社会の全てがディズニーランド化していくという見立てを取っていくか、いや日本の土地の下でアメリカ的なるディズニーランドも日本的な変化を遂げているぞ、と日本の土着的でナショナリズムな側面を取り上げるかの違いに収斂するのではないかと思う。
ただしここで注意しなければならないのはこの二項対立自体が完全に能登路雅子によってセットアップされた見かけ上の対立でしかない可能性を人々は忘れている。つまり何をもってディズニーランドはアメリカ的であると決めたのか?ということであって、ここに盲点がある。能登路はそれをウォルト・ディズニーが体験したアメリカの自然環境の厳しさに求めた。それももちろん正しいだろう。しかしそれだけでディズニーランド=アメリカ的であると見なしてしまうのはディズニーランドを少し狭い枠に閉じ込めすぎではないだろうか。しかし現在のディズニーランドの批評本ではこの能登路が設定した「ディズニーランド=アメリカのもの」説に基づいた上でいくつかの論点が提出されているような気がする。

 

つまり最初の話に戻るとするならば現在におけるディズニーランド批評が未だに能登路雅子を使用しているというのはその多くがこの二項対立に起因するのではないかと思われるのであって、つまりディズニーランドをどのように語ろうともこの能登路が用意した舞台に乗せられている可能性があるのだ。だとすればディズニーランドを巡る批評において必要なのはこの「ディズニーランド=アメリカ的なるもの」を突き崩していくことがその一つとして考えられるのであって逆に言うとそうした批評が出てこなければディズニーランドの批評シーンは停滞するだろう。

 

 

ここで手前味噌であるが僕がこのような状況を踏まえて寄稿した東京ディズニーリゾート論が掲載される予定の「Locust」の話をすると、この批評同人誌は「旅する批評誌」というコンセプトがついていて、毎号メンバーで各地を旅しながらその土地についての観光ガイドを模した批評誌を作ろうという攻めた(?)雑誌である。ここで「土地」に焦点を当てて批評を行うということは少なくとも僕自身にとっては大変重要な意味を持っている。というのも「土地」に「批評」をかざすとき、そこで見えてくるものは「土地」という目に見えるものが持つ「目に見えないもの」だからである。

 

例えば能登路雅子の『ディズニーランドという聖地』は「ディズニーランド=アメリカ」説をその目に見える範囲での土地から措定している。つまりウォルトはアメリカという土地出身であってそんな彼がつくり出したディズニーランドはだからアメリカ的なのだ、というロジックだ。人間は「どこで生まれたか」とか「どこで育ったのか」というように土地にその多くを規定されている。しかしそれは「目に見える土地」でしかない。

僕はその「目に見えるもの」の論理で構築されたディズニーランド論では満足できないというのが今までの話だった。「ディズニーランド=アメリカ」説を一度疑ってみなければならない。その時に必要なことこそ「本来は別用の二者をつなぐ」ものとしての批評であり、それによって「目に見える土地」に規定されていたディズニーランドは「目に見えない土地」によって新しい様相を呈するのではないだろうか。そのような意味で批評誌「Locust」はディズニーランドのみならず様々な土地でそうした「批評」を行うことは各地に眠る様々な「目に見えない土地」を発掘することになり人間が本来的に規定されている「土地」という目に見えるものから僕たちを解放してくれるだろう。

 

 

というわけで最後は「Locust」の遠回りな宣伝みたいになってしまったわけだが少なからずディズニーについて分析された本を読み漁りながら考えたことを文章化してみたかったので多少散らかっているかもしれないがこのように文章にしてみた。何度も言うようにここで扱っている文献は膨大なディズニーランド本の内のいくつかにしか過ぎないがわりかし重要であると感じたのでこの6冊をピックアップした。ただしこの文章に載せなかったものでも重要であると感じた文献がいくつかあるので(またそのうちのいくつかは能登路雅子を超える萌芽も持っている気がする)、著者と書名だけでも掲載したい。そのうち、また別の記事で触れるかもしれない。

 

1:五十嵐太郎「ミレニアムの都市[Ⅱ] ディズニーランド化×マクドナルド化」(『終わりの建築/始まりの建築 ポスト・ラディカリズムの建築と言説』、INAX出版、2001年)所収。

 

2:加藤耕一『「幽霊屋敷」の文化史』、講談社、2009年。

 

3:高橋ヨシキ『暗黒ディズニー入門』、コアマガジン、2017年。

 

4:富田隆『ディズニーランド深層心理研究』、こう書房、2004年。

 

5:吉見俊哉「シュミラークルの楽園」(『視覚都市の地政学』、岩波書店、2016年)所収。

 

 

 

 

 

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